菅井 好文さん 鮭はめんこい 帰ってくると涙が出る(天塩町)

 留萌管内北部、天塩(てしお)町はシジミ、酪農が有名なマチだ。この地に暮らす菅井さんは漁であり、夏のシジミ漁、秋の鮭漁に命に命をかけ、今日も船を出す。

日焼けした顔が漁師の誇りを感じさせる。菅井さんの大切な船とともに。

日焼けした顔が漁師の誇りを感じさせる。菅井さんの大切な船とともに。

「漁師になって45年だ。早いもんだな。」と語る菅井さん。日焼けした顔からこぼれる笑顔は優しく逞しい。菅井さんは三代目の漁師である。山形県出身の祖父は廻船問屋として山形、天塩、樺太間で商売をしていた。昭和20年代、春は家族で鰊や鱒、秋は鮭漁を生業としていた。季節ごとの番屋住まいには、本州からのやん衆※と寝起きを共にした。「当時のおやつは、干し数の子や身欠き鰊だったもな。」子供の頃から、漁は生活の一部だった。
 15歳の春に漁師になってから、ずっと鮭を獲っている。「昔の鮭の保存方法は山漬けだ。どぶ漬けとも言ったな。番屋には塩蔵タンクがあって、鮭を重ねては塩をして、また鮭を重ねていくやり方だ。鮭が重しになって水分が抜けていく。出荷する時は新巻にして、東京の築地にも送ったもんだ。」昔ながらの保存方法を、身ぶりを交えて語る菅井さん。

は時化魚(しけざかな)
 鮭漁は定置網漁法で行われる。
 定置網は、25m×150mの長方形の箱状の銅網(どうあみ)と手網(てあみ)の構造になっている。手網は600mほどもあり、網にぶつかっては、沖に向かう鮭の習性を利用して銅網に誘導していく仕組みだ。年間、3万から4万本、最盛期では1日に4000本獲れる日もある。漁は船頭が仕切る。菅井さんは船頭であり、豊慶丸の船長だ。「鮭は時化魚。時化の見極め次第で網もろとも流されることもあれば、大漁にもなる。勘勝負だ。飯も喉を通らない夜もあるさ。」豪快な漁師の繊細な一面を垣間見る。

船が港に戻るとすぐにオスとメスを選別し出荷する。早さと正確さが勝負

船が港に戻るとすぐにオスとメスを選別し出荷する。早さと正確さが勝負

 菅井さんは、秋鮭漁の時期になると何人もの【若い衆】と呼ばれる漁師達を雇い入れる。秋鮭漁の期間は、若い衆達と番屋で寝食を共にする生活だ。一日中、鮭と向き合うといってもいい。
 早朝に漁に出かけ、何百、何千もの鮭を水揚げする。港に戻れば、鮭の選別作業が待っている。鮭の腹を裂かずにオスとメスを見分けなければならない。メスにはイクラ(卵)が入っているから、オスとメスでは市場で買い上げる値段が違うのだ。
正確に見分けるには熟練の厳しい目が必要だ。菅井さんは目で見分けるだけでなく、その指先でも見分けることができる。指先に伝わる鮭の腹の張り具合を見極めるたけ、ゴム手をつけずに素手で作業にあたる。

マキリは漁師の大切な道具。

マキリは漁師の大切な道具。

 菅井さんや若い衆達は腰にマキリよ呼ばれる鮭をナイフをさげている。漁の最中や港での作業のときにも使う道具だが、番屋に帰ってから、自家製のトバ(鮭の干物)作りや、漁師達がその日食べる鮭をおろすのにも使う。
ゴムのベルトでしっかりと木製やプラスチック製のサヤに収められたマキリは、漁師の大切な道具のひとつだ。

漁の醍醐味を問う。
 「自分で獲った鮭のイクラ丼を腹いっぱい喰って、健康で漁ができるのが最高だべさ。遡上した鮭の卵を孵化させて、春に川に放したら、4年後には帰ってくるんだ。沖で群れて泳ぐ鮭みたら、涙出るよ。」鮭はめんこくて、子供みたいなものと語る菅井さんの言葉ひとつひとつから、鮭へのひとしおの想いが伝わる。

 今年の秋も大漁であってほしい。里山では豊かに実った農作物が収穫の時を迎え、海には鮭が帰ってくる。大海原の旅を終えた鮭たちよ、群れをなして帰ってこい!

鮮やかな手つきで鮭をさばく漁師。番屋の食卓には毎日のように鮭の料理が並ぶ。

鮮やかな手つきで鮭をさばく漁師。番屋の食卓には毎日のように鮭の料理が並ぶ。

※やん衆…鰊漁場で働く労働者。親方や漁師達は【やん衆】とは呼ばず、【若い衆、若いもの】などと呼んでいた

プロフィール  菅井 好文(すがい よしふみ)さん

昭和23年 天塩町生まれ
天塩町在住